こんにちは、Akiです。
通訳ガイドとして日本を紹介するために、私が興味を持って読んだ本を紹介します。
今回は、通訳ガイドとしてというよりも、沖縄好きということから読んだ本をご紹介します。
「首里城への坂道 - 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像(中公文庫)与那原恵(著)」
沖縄は、かつての琉球国(琉球王国の正式名称)として、日本本土とは異なる歴史・文化を持つので、本土の通訳ガイドにとっては、ハードルの高い場所ですね。
この本は、大正時代~現代にかけて、琉球・沖縄の文化を愛する人々が、どのように琉球・沖縄の文化を守り伝えてきたのかを描いたノンフィクション作品です。
かなり読みごたえはありますが、沖縄にルーツを持つ、与那原恵さんの描く沖縄の風景や人々は生き生きとしており、目の前にその光景が浮かび上がってくるような本です。
鎌倉芳太郎とは
私がはじめて「鎌倉芳太郎(かまくらよしたろう)」の名前を知ったのは、「うるま」という、沖縄のライフスタイルや、文化を紹介する雑誌の2003年11月号に掲載された記事でした。
その記事は「古の琉球へ。」というタイトルで、鎌倉芳太郎が1920年代に撮影した、沖縄の風景・風俗・美術工芸品などの写真展を紹介するものでした。
記事の中のモノクロ写真は、首里城をはじめ、人々や文物の姿が、驚くほど鮮明に記録されていたことが印象的でした。また、首里城正殿取り壊しの新聞記事を目にした鎌倉が、当時の大建築家・伊東忠太に訴えて、寸前に破壊を阻止したという話が記憶に残りました。
そして鎌倉が私と同じく、香川県出身であるということにも興味をひかれました。鎌倉の生まれ育った場所は、私の実家からも近いのですが、それほどの人物でありながら、それまで彼の名を聞いたことはなく、不可解に思ったものでした。
その鎌倉芳太郎の事績にスポットをあて、彼の生涯を軸に、琉球王朝の時代から続く、貴重な琉球・沖縄の芸術・文化などの調査・継承・発展に尽力した人々を描いた本が、
「首里城への坂道 - 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像(中公文庫)与那原恵(著)」です。
鎌倉芳太郎は琉球・沖縄に魅せられ、大正末期から昭和初期にかけて琉球・沖縄の芸術、文化、歴史、民俗、宗教、言語などを幅広く調査・研究した研究者、教育者です。
著者の与那原恵さんは、本書で以下のように記しています。
鎌倉をひとことであらわすのは、とてもむずかしい。
首里城への坂道 - 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像(中公文庫)
あえていうならば、<「琉球文化」全般の最高のフィールドワーカー>だろう。彼以上に、琉球と対話し、観察し、記録した人間はいない。
鎌倉芳太郎と沖縄、そして人々
物語は、鎌倉芳太郎が大正十年春に、東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業し、美術教師として沖縄に赴任してきたところから始まります。
首里の旧士族家に下宿し、首里言葉を覚えながら、本土とはあまりにも違う沖縄という地への興味を深めていきます。
そして、琉球の文化を学術的な面から研究する、「沖縄学」の父といわれる「伊波普猷(いはふゆう)」や「住吉麦門冬(すみよしばくもんとう)」など、沖縄の人々との幸運な出会い・交流を通して調査・研究を進めていきます。
東京美術学校に戻った鎌倉は、当時の校長・正木直彦の紹介で、建築界の権威・伊東忠太の後援を得ます。
伊藤忠太も鎌倉を通して沖縄の文化に魅了された一人でした。美術家になりたかったという伊東は、琉球の建築だけではなく、芸術や宗教など幅広い興味を持っていたようです。
ふたたび沖縄に渡った鎌倉は、多数の写真を撮影しながら資料を収集し、沖縄の人々から民謡や伝承など、貴重な話をノートに記録します。
その行動範囲は沖縄本島だけではなく、久米島など近隣の島々に加えて、奄美や宮古、そして石垣など八重山、果ては台湾まで及び、当時の交通事情を考えると驚くばかりです。
その後、第二次大戦で戦場となった沖縄では、首里城をはじめ、貴重な文化財のほとんどが灰燼に帰します。描かれている沖縄の凄惨な様子には、本当に胸が詰まります。
東京も空襲を受ける中、鎌倉も多くの著作を失いますが、それでも守り抜いた資料が、戦後の沖縄の紅型の復興へとつながります。
そして1972年、沖縄の本土復帰の年に、鎌倉が大切に保管していた写真ガラス乾板から、50年前の沖縄がよみがえります。
この本の物語は鎌倉を中心に展開しますが、同時に、多くの琉球・沖縄文化に携わる人々が描かれ、その人々の沖縄に対する愛情と情熱を感じずにはいられません。
また、本書には書かれていないけれども、沖縄の文化を守り伝えることに力を尽くした、多くの名もなき人々にも思いが及びます。
よみがえる首里城
最終章「よみがえる赤い城」では、鎌倉が亡くなった後の首里城復元の様子が描かれています。
復元に必要な史料が不足し、手詰まりにおちいっていた中、メンバーの一人が鎌倉の著書にある絵図に気づきます。それを手がかりに、なんと「鎌倉資料」の中から、首里城の工事仕様書が見つかりました。
首里城正殿は、その復元に関わった人々の思いと、何か不思議な力が結びついて必然的に行われたのではないかという思いに駆られます。
1992年に復元された正殿は、残念ながら2019年に焼失しましたが、現在も再建に向けて、さまざまな人々の知恵と努力が注がれています。
その後、鎌倉芳太郎の残した写真ガラス乾板から見つかった新たな知見も加えて、また首里城正殿の姿を目にできる日も遠くはないことと思います。
いつの日かまた沖縄を訪れたときには、首里の坂道を歩き、鎌倉芳太郎の見た風景に思いを馳せてみたいと思います。
※鎌倉芳太郎が所持していた「鎌倉資料」は、沖縄県立芸術大学のウェブサイトで閲覧することができます。